どんぐり会 文集
本因坊算砂と絶滅打法 金子7874
<肖像>
どこまで本人に似ているかは不明ですが、こんなふうに描かれています。
なんとなく、日本棋院の竹清勇先生に似ています。(ご本人も認めていました。)
なお、日本で正座が普及するのは、18世紀になってから。
算砂の時代は、胡坐または立てひざで碁を打っていたのでは思います。
<読み方>
昔は、ほんにんぼう さんしゃ と読んだということが文献上確認されていますが、現代では、ほんいんぼうさんさ、と読みます。
昭和初期の雁金準一の著書では、 ほんいんぼう さんしゃ と書いてありました。
雁金準一は本因坊秀栄の弟子。秀栄は本因坊秀和の実子なので、本因坊家では、こう読んでいた、ということなのでしょう。
なお、算砂の法号の日海も、現代では、にっかい、と読みますが、当時は「にちかい」と読んでいたそうです。
<算砂は殺されなかった>
算砂の偉大なところは、信長、秀吉、家康と三代にわたり権力者に仕えたことです。
もともとは僧。
それが、最終的には碁所として、扶持までもらうようになったのでした。
千利休、キリシタン宣教師、石山本願寺、みなこの3代の間に殺されました。
そのほか、当時のことですから、とにかく機嫌を損ねたら大変な目にあうのでした。
よほど、処世術にたけていた人だったのでしょう。
<将棋も強かった>
算砂は、将棋も強く、最古の将棋棋譜も算砂と初代大橋宗桂との間のものです。
当時、世界で2番目に将棋が強かったのでしょう。
そもそも、将棋の駒の数と配置を現代のように制定したのが、算砂だと言われています。
<碁はもちろん強かった>
碁は、もちろん、当時、世界で一番強かったはずです。
また、自由棋法(最初に星のところに石を置かない)を制定したのも、算砂だといわれています。
中国では20世紀になるまで、星のところに石を置いていました。
さて、現代からみて、通用しない打法も、算砂の時代には咎める人がいなかった。
あるいは、序盤で咎めても、最後にやられるので、反論に説得力がなかったということなのでしょう。
具体的にみてみましょう。
<図1 コスノビ>
白1のコスミが絶滅打法。そして白3と伸びる。
実は、黒2で3と打たれると、黒が厚くてよし、が現代の評価。
ゆえに、白1では、3の上に跳ね上げるのが現代の定石。
算砂の弟子の道碩の時代には既にハネが打たれています。
しかし、算砂のころは、なぜかみんな黒2と受けてくれて、この進行なら白少しよし。
<図2 ブツトビ>
ぶつかってから、飛ぶ。
これで二間、二間(提灯行列と称します。)の味の悪さを解消。
さきのシニア棋戦でも類型がでましたので、現代でもなくはない。
しかし、通常は、白を固めて、他の手段の余地をなくして悪いとされています。
<図3 ハネイチ>
ハネ一本打ってから開く。
このハネは、利かないかもしれないし、後からでも打てる。
今すぐは打たないのが現代の打法。
<図4 星下重視>
道碩の時代くらいまで、とにかく星下が重視されました。
上図のように、アキ隅があっても、星下に打つ。
1 開き隅、 2 カカリ、 3 シマリ
と布石の考えをよく教わりますが、当時は、一隅でひと段落すると、
開き隅より、星下の方が大きいとされていました。
これは、あらかじめ四隅に石を置いて打つ古代の打法の名残、という説もあります。
以上4例だけご紹介しましたが、絶滅打法も、何しろ当時最強だったので、それなりに有力。
時間を相手に使わせる、という効果もあります。
また、現代の打法もしばらくすると評価が変わる可能性大です。
囲碁は、打つだけでなく、歴史に思いを馳せるのも楽しいものです。